2015/12/17

落葉はゴミか。



昨日からの風雨に散って、黄色の絨毯のごとく積もった銀杏(イチョウ)の葉が美しい。
車道まで黄色く染めてた落葉が行き交う車の巻き起こす風に舞うさまを見て、
同行する人が「汚いなあ」と言ったことに驚いた。
銀杏(ぎんなん)の踏み潰された匂いや靴底につくのを嫌う人はいたが、
枯葉や落ち葉を汚いと直接耳にしたのは初めてだったから。
そういえば今朝、おそらくボランティアで最寄駅の清掃をしている老人が
落ち葉を箒で掃き集めながら、通りがかりの知り合いに何か声をかけられて
「掃いてもきりがないから枝切ってしもたらこんなに落ちひんねん。
何回も役所に言うてんねんけどな。もう一回言うたるわー」と答えているのを聞いて
そういう人たちにとっては枯葉はゴミでしかないんだなあとぼんやり思っていたけれど。

舗装された道路に落ちた葉が濡れて滑りやすくなったり、
路傍の排水溝を詰まらせたりだとか不具合はあるのだろうとしても、
街なかでわずかに息づく樹木の営みや生命のサイクルをゴミや汚物と思ったことはなかったし、
せめて土のある公園の枯葉などは落ちてもすぐに掃き除かずに
自然に土に還るまで、そのままにしておいてくれないものだろうかと常々思ってきたから。
感覚的に「汚いもの」と感じていれば、そういう人たちは一刻も早く排除したくなるのだろうな。
仕事や立場など関係なく、同じものを見てもまるで感覚の違う人というものはいるのだなあ、と
あらためて気づかされた少し寒くなりかけた冬の入り口。

たとえば選挙の結果がどう考えても不可解なまるで予想外の結果になるようなことを
いったいどんな人が投票しているのだろう、と不思議に思っていたりしたけれど
そういう感覚がいわゆる「フツー」の多数派の市民感覚であったり、
自分の意識や感覚が、違っているのだということを認識させられた。
多数小数に関わらず、感覚の違う人には理解できないことは多いんだろうし、まあ、しょうがないな。
自分を信じてやってくしかないか。人から排除されることもあるのだろうけれど
そのうちホントにわかってくれる人にもまた出会うこともあるだろう。
生きてるうちにはないかもしれないけどな。

画像は5年前の12月ちょうどいまごろ。公園に積もった銀杏が美しい背景になった。
(と、思ってるけどやっぱりゴミの上に寝るってどうよ?てことになるのかな ......)

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