2014/12/12

無我ハッピー。


数字的に言えば半分くらいの年齢の若者が胸に抱える鬱屈した思いを夜中に聞く。
まるでわからぬ話でもなく、むしろまるで我がことのように手にとるようにその苦しみや悩ましい気持ちが理解できるのは、今の自分もおんなじような意識であったからで。
それが若さゆえの鬱屈であれば、ああオレもまだまだ若いのだ。などとポジティブハッピーに能天気に思っていればいいのだろうが、そうではなく。ただもう一歩踏み込めていないだけだ。

ひととおり話を聞いたあと、自分がいま思うこと、自分がすべきであろうと思っていること、そうありたいと思っている考え方を話して諭す。
大事だと思うもの、それがなくては生きていけぬと思うほどに必要なのであれば、それを大事にすることをまず自分の第一義として生きていけばよい。それがたとえ悪い薬や毒であっても。たとえそれが他人からみればマヌケな姿であったとしても。
自分がそれ以外に、それ以上に幸福というようなものを感じることができないのであれば、そのために生きていけばいいのではないか、と。ひとに迷惑をかけたりすることさえなければ。
自我は二の次にする。オノレが気に入らないとか腹立たしいとか寂しいとか悲しいとかつらいとか苦しいとか、そんなことを思う前にまず大事なものにとっていいことかどうかを考える。無我夢中とはきっとそういうことなんだな。

2014/12/02

それでも生きていくしか。


訃報が続く。
そんななか、正直、いっそいなくなってくれればいいのにと思うほどの無理解と確執を覚えたこともある人が、ずいぶんと弱って姿さえ変わりいよいよ死の淵というところにあっても心は動かなかったのに、奇跡的に生還し元気になって元いた場所に元のような姿で戻っているのを見たとき、知らぬうちにボロボロと涙がこぼれた。躊躇なく近づいて手を握り肩を抱き、よう帰ってきはった。よく戻ってきはった。と、涙しながら口から衝いて出ていた言葉にも嘘はなく、自分は本当はこの人が嫌いというわけではなかったのだなあとわかる。人の寿命は人が決めるものではないことも。


心の機微や揺れ動いたできごとを誰よりも語りたく思う人には、そんな気持ちを告げることもできず。
また、ひとり。の感。世界中から疎ましがられても誰に理解されることなくとも、ただ粛々と、与えられて定められた寿命が終わるときに向かって生きていくのみ。


2014/11/04

GOING SLOWLY


そこそこの腕もあって、そこそこの頭も目も持っていて、人やモノゴトや世の中についての判断もそうそうおかしなふうにはしていないと思うのだが。
なんでかしらんうまくいかなくて、なんでかしらんそこそこまではいけてもそこから先、前に進めず広がりもせずだいたいのことがシリスボミになっていく。行動力のなさだとか、敵愾心や猜疑心が強過ぎてよく知らない人とスムーズに交わることができなかったりというような、全てはオノレの性格だとか性質によるものなのだろうと薄々わかってはいるけれども。どんな世界でもメインストリートにいるような人たちやメジャーなところに寄るような姿勢をこころよく思うことができず、かといって貧乏くさい畳敷きのマイナー世界にも交われない。「結局、なにごとも大事なのは人のつながりでさ」というような人とはあんまりつながる気にもなれず、そんな人々を遠目に見てはどっちつかずで孤立して、「けっ」とか言いながら実のところは膝をかかえて拗ねている。

長い間このような性質で生きてきたのだからおいそれと変質することもできず、かといって孤高を気取って生きて行くには全てにおいてそこそこ過ぎて、やっぱりあっちにもこっちにもトゲトゲとした敵愾心とビクビクとした卑怯を抱えながら生きて行くのだろう死ぬまで。せめて、大事に想う人くらいはまるごと信用して丸くやわらかくまっすぐに向き合おうとしないとホントに誰もいなくなるよ。と耳の奥の方で誰かがささやく。きっと孤独をおそれる自分の心の声が。
同じ失敗を繰り返しても少しずつ、ちょっとずつ少しずつ近づいていられればいいのだけれども。ゆるゆるとした徐行であっても。

2014/10/17

快挙。

写真家イイマユミが、ロシアの国際写真コンペ「MOSCOW INTERNATIONAL FOTO AWARDS」にてプロフェッショナルFINE ART部門 STILL LIFEカテゴリ−にて1位を獲得。
今年が第一回の国際コンペティションではあるけれど、入賞作品のクオリティや入賞/入選者の顔ぶれを見ても他の国際コンペティションで入賞していたりよく見かける名前が揃うレベルの高いコンペ。
世の中のネガティブ面とかマイノリティをピックアップしてドキュメンタリーにしたてる「作品」が流行の作家志向的なコンペとは趣が異なり、アドバタイジングからエンターテイメント、ドキュメンタリーからアートまで、広い範囲で写真としての表現の可能性や魅力を探ろうとするコンペであって、ましてやメーカー主催のコンテストやイベントのおかずとしてあるようなものでもなくて、この1位の意義は大きくて高く評価されてしかるべきものだと思う。


作品のテーマは「枯れてもなお美しく」。
写真を始めて間もない頃に国内コンペで入賞した「枯れゆくバラ」の美しい写真から一貫して枯れゆくものや廃れてゆくものに視線を注ぎ、忘れ去られてしまいそうになりながらも依然としてそれらが内に秘めている力や美しさを写真作品にしてきた写真家本人にとっても、原点ともいうべき被写体による表現が評価されたこともまた喜ばしいことではないかと思う。
写真というものを撮り始めてまだ数年、技術や知識の蓄積はまだ途上のようだけれども、幼い頃から親しんできたという芸術的素養からすでに形成されていたのであろう表現センスの秀逸さと、世の中の人やものごとに対する理解や判断についても表面的にではなくその本質や自分のなかにある基準によって為そうとする純粋で潔癖な人間的要素が、写真作家としての表現や作品を独自的なものにしているのだろうと思う。
初めてカメラを購入するところから見てきた自分にとっても、ちょっとだけ先輩として我がことのように嬉しい。


MOSCOW INTERNATIONAL FOTO AWARDS
2014 Winners


MAYUMI II Photographie

2014/10/15

なにかが降ってくる。


絶対的な神さまとかいうものが、信じようとしてもなかなか信じられなくてそれ自体が悲しいのだけれど、
人のチカラじゃどうにもならないようなことがどうにかなるような奇跡的なことだとか、
考えてもよくわからなかったようなことが突然はっきりとわかったり確信できたりするような
「天啓」だとか「頭のなかになにかが降ってくる」とかいうのはあると思っていて、
朝起き抜けに突然「旅に出なければならぬ」と思ったりだとか、ふと思いついて「会社勤めをやめる」と決めた
なんていうようなものは、損得やリスク成算勝算、効果効能みたいなことを考えたものでもなくて、
世間のしがらみやまわりの人間への配慮遠慮などからも解放されて、
逆にひとりの人として本人にとってはとても純粋で本当のことであるような気がするし、
あれこれ迷ったり悩んだりしているようなときには、いちばん正しいことのような感じがする。

わりと現実的な夢をみていたようでまだ暗いうちに眼が醒めて、
横になったまま、薄ら明るくなっていく窓の外を見ながらぼんやりとしていたら、なんかが降ってきた。
ああ、そういうことなのかな。と思うと、なんでこうなっちゃうんだろ。とずっともやもやしていたことが
少しだけその理由が見えてくるような気がして、けど二度寝すると忘れるかもしれないので
そのまま起き出してコーヒーを淹れてタバコをすってるうちにすっかり夜が明けた。
降ってきたものをうまく言葉にできるかどうかわからないけれど、なんとなくちょっとわかった気がして
それは信じていいことなんじゃないかなあと思うし、誰かにもお話しておきたいと思う。

ウダツがあがらず低調が続く、こと仕事に関してはコレというような変化の啓示はまだ降って来ないので
まだまだこのまましんどい感じで続けておけ、ということなのかなあ。とも思ったり。
古本屋をやろうかなんていうのは、やりたいなあいっぱい本あるしいいかなあとかいうような
愚者の思いつきによる現実的な愚考なんだろうから、たぶん「正しき天啓」ではないようにも思うしな。
と、いうことで仕事ください。

2014/10/07

絶叫委員会


穂村 弘
2010年 筑摩書房刊

買いました。古本屋で。王子公園のワールドエンズガーデンで。
いつも寝ている猫の店主が、発情がキテルのかしらんウロウロと立ち歩いていたのが
ようやく定位置の寝台に寝そべったので、店主の頭の上らへんに手をついて下方の棚を物色してたら
思いっきり猫パンチを数回連続で食らわされました。久しぶりに受ける猫パンチ、嬉しかったデス。

本を読ま(め)なくなって久しいこのごろ。リハビリにちょうどいい軽さ、と、深さ。