2015/05/25

枇杷。



小学生のころ、食べたあとの種を庭の隅に埋めてみたら芽を出して、実がなるくらいにまで大きく育っていたのを20歳前、父親が病気で重篤になったときに「庭にある実のなる樹がご主人の生気を奪っている」などと占い師に託宣された母親が、庭にあった大きな栗の木やら夏蜜柑やら金柑の樹とともに実のなる樹を一斉に切り倒してなくなった。
おかげで、かどうかは知らないが父親は奇跡的に快復し、それから10年生きた。
スーパーの果物売り場に枇杷が並ぶこの季節になると、病気がちだった父親を思い出し、自分なりの方法でしか人を思いやることしかできない母親のことを想い、必ず一度は買って食べる。家のものは誰も食べないので自分ひとりで。
父親が亡くなってから実家の庭には新しく桃の木が植えられて、数年前から毎年実をつけるようになっている。
今度帰ったときには、こっそり枇杷の種を埋めておいてやろうか。

2015/05/18

はだし



いつもかかとの高い靴を履いてるきみが
ぺたんこの靴を履いたときに
少し左右に揺れながら歩く姿が好きだった。

まだ明けきらぬ朝と終わろうとする夜の間で
たぶん誰も見ることないきみの
頼りなくて弱々しいはだしの後ろ姿を見送る。

はじめからずっと、白いカラーが好きなのは変わらない。

2015/05/16

魂。

中尾和生さんという人の初めての「個展」を観た。
64年生きてきた中尾さんという人間の、真に裸のそのまま丸ごと。




いろいろ書いていたけど、どうでもよくなって消してしまった。
自分はこの人を好ましく思うし、なにかを表現する人としても敬意をおぼえる。
本能や天啓や自分に忠実な美しい魂の持ち主だと思う。それだけ。
売れるための計算や戦略を考えて人とつきあったりものを作ったり踊ったりはしていない。
それが本来の姿じゃないのかなあ。

おまけ。遅れて行った自分のために、汗をかきながらブリーフ一枚で懸命に踊ってくれた、
別名「田成和生さん」コマ送り10秒動画。
https://youtu.be/KQhjZ7ZBBDc

2015/05/05

The other side of 'PARASOPHIA 2015'



たぶん写真をやってる「友だち」が多いからだろうけれど、SNSなんかでは「KYOTO GRAPHIE」の話題でもちきりの感のある京都の連休。
サテライトイベントのKG+としてGallery mainで展示の「松井 泰憲写真展 - Zoo 動物達の楽園-」を観たくて、最終日のクロージングパーティにお邪魔して拝見。
夕方まで時間があったのでその間に他のも、と思ったけれど、KG関連ではあまり鑑賞欲をそそられなかったので、あえて「PARASOPHIA」のほうを観ることにした。
こちらもKGと同様、京都市美術館を中心に各会場に展示が散在するかたちで開催されている京都国際現代芸術祭。
展示作品も会場も写真撮影に関してはまったく規制がなくて、どれだけ撮ろうが全然オッケーだったので気持ちよかった。
2時間ほどしかなかったので、長めの映像作品やわかりにくいもの、観客に我慢を強いるもの、自分的につまらないものはどんどんパスして駆け足で観てまわる。
作品自体を撮ったりもしたけれど、とりあえず側面の写真を。











「KYOTOGRAPHIE」、昨年は何カ所か観てまわったりもしたけど、元々スタンプラリーだとか観光ツアーとかが好きではないので
あちこちに点在する展示会場を移動するのがめんどくさくて、一カ所でひとまとめに展示すりゃあいいだろうに、と趣旨を根底から理解していない観客でもあって
次はここ、次はあっち、とRPGゲームのような敷かれたストーリーをなぞっていくような鑑賞が楽しいとは思えず。それなら平素でも自分で勝手にギャラリーめぐりとかもしてるしな。
「PARASOPHIA」のほうは、とりあえずメイン展示会場の京都市美術館にいろんな作家の多様な表現の作品がまとまっていて、
じっくりみるとそこだけでもまる一日かかりそうなボリュームでもあって、めんどくさがりにとってはありがたい。3月から時始まっていた展示も連休明けの週末5月10日まで。
天の邪鬼な性格なので情報が多いものより少ない方を、声の大きな人より小声でそっと言うひとの奨めるものを選びがちだけれど、
それよりなにより、写真より芸術のほうが観ていて楽しくてわくわくするので。

2015/04/26

迸る。



液晶画面に番号が表示されないのを不審に思いながら受話器をとると、フランスからの電話だった。
かつて自由を求めて羽ばたいていった人は、自由のかわりに愛を手に入れてずいぶんと強くなり、
少し落ちついてしっかりした様子でもどってきた。
がんばらなくても自由でいられるクソみたいな国の自由さがどれほどのものか知りたくて
すっかり忘れてしまったフランス語の勉強をまたはじめてみようかと思った。



ときどき想いが迸る。

2015/04/17

散華。


自分さえ決心すれば全ては変わって、きっと世界は新しくなるに違いない。そうとわかってはいるのになかなか思いきることができない。
たぶんもう、誰かはそんな新しい世界へと一歩も二歩も先へ進んでいるというのに。
逡巡と当惑、絶望と希望を繰り返して、決心とはつまりひとつを諦めるということで、それはそれを生きることと等しいと一度心に決めた自分にとってはまるで散華のごとき無念さをともなって、後ろ髪をひく。
髪の毛ないけど。。。