2015/04/17

散華。


自分さえ決心すれば全ては変わって、きっと世界は新しくなるに違いない。そうとわかってはいるのになかなか思いきることができない。
たぶんもう、誰かはそんな新しい世界へと一歩も二歩も先へ進んでいるというのに。
逡巡と当惑、絶望と希望を繰り返して、決心とはつまりひとつを諦めるということで、それはそれを生きることと等しいと一度心に決めた自分にとってはまるで散華のごとき無念さをともなって、後ろ髪をひく。
髪の毛ないけど。。。

2015/04/15

おしゃべり。

かんじんな事はなんにも言わないのに、どうでもいいような雑談ばかりとても饒舌なおじさんと半日過ごして疲れる。
おしゃべりが好きな人だなあと思っていたら、部下が鬱になって担当の仕事を投げ出したまま休職してしまったのでフォローが大変だとか言うていた。おじさん曰く「ボクは絶対鬱にはなりません、なぜなら人と話すから。やっぱりねー、人としゃべらないとダメですよ。他人と会話しない人は鬱になっちゃいます」なのだそう。
心療内科とか精神科とかの受診はしてないのではっきりとそう告知されたわけでないのだけれども、25年ほど前に激しい時期には電車に乗ることも外食もできない状態のいわゆるパニック症候群を患って、今でも狭くて暗いとこや満員電車には乗れず飛行機にも乗れない自分なのだけれど、いろいろと精神的にキツい状態が続いてるこのごろで「よく鬱にならないもんだなあー」と自分で自分のことを思っていた。
心の弱さ、精神的な脆さは自覚していて、自信もなければええ歳になってんのにまだ自己確立もできてない。基本的にずっとひとりで仕事をしていて人と話すこともあまりなく、夜、家に帰らずに仕事場に泊まったり仕事のやりとりや連絡もメールだけで済ませたりしていると3日ほどヒトコトも誰とも口をきかないこともある。いろいろくよくよと考えすぎて考えが暴走しがちだったり、プラベートの約束でも待ち合わせの15分とか20分前には必ず目的地に着いているようなパンクチュアルさで、「こうであるべき」だとか「正しい/間違い」を気にしがちで、巷でよく言われる「なりやすい性格」や「なりやすい状況」を充分満たしていると思うのだけれど、なかなかならない。
いろいろと考え出すと夜眠れなかったり、気がつくとぼんやりしていたりすることもあるので、ひょっとするともうすっかりなってんのかもしれず、おじさん曰く「日本人の7割はそうなんですってね」ということであるので、自分もその7割のうちに含まれてもいたりするのかもしれないけど、病気は症状や病名を告げられた時点でその病気になる。と思っているので、自分ではその傾向はあるけどただ精神的にしんどいだけ。だと思っている。


人とおしゃべりすることが嫌いなわけではないし、人と関わることが厭なわけでもない。
けど、どうでもいいようなおしゃべりに「どうでもいいよそんな話は」と思っても言えないのがつらいし、自分の興味があることを話しても、相手にそのことについての関心がなければ聞かされてもつらいだろうなあと思うのでなかなか気楽におしゃべりができない。ワタクシという人間自身に関心を持ってくれていればたぶんどんな話をしても興味を持って聞いてくれるのだろうとは思うけれど、そうかどうかはわからないような距離感の人とはなかなかフランクにおしゃべりができないし、ちょっと興味を持たれてもだんだんと相手の関心が自分から離れていくのを感じたりすると、それもまた悲しい。
なので「この人は」と思える人には腹を割って話せたり思うことを話したいと思うけれど、考えたこと思ったことをまるごと全部言い過ぎて、疲れられたり敬遠されたりもして、やがて誰もいなくなる。
そんななか、今年で「記念すべき10周年」だと人から教えてもらった「オヤヂラヂヲ」というものが、ぎりぎりのところで耐えている自分にとって、ひとつの救いになっていたのかもしれないなあ、などとあらためて思う。近くにいた頃は2週間ごとにきっちり収録に来てくれて、遠くなってからもなんだかこのごろ急にヤル気になって、またいろいろと提案してくれたりお話をしにきてくれる相方にとても感謝している。
今週末は2ヶ月ぶりの収録と軽くイベントがある予定。楽しみだ。

2015/04/12

理由。

デザインしたものを仕事相手に見せると、よく理由を訊かれる。
「どうしてここはこの色なんですか?」「このパターンが丸いのにはなんか理由があるの?」とか。
そんなものはないし、感覚と経験でやっているので「つまんないこと訊くおっさんだなあ」と思いながらテキトーな理由をこじつける。
「本文内容が堅いので全体として柔らかな印象をあたえるためにベースのオブジェクトは角丸に」だとか「企画の新しさや革新性を訴求するには暖色系よりも寒色系の新鮮さをイメージできるようなカラーで」だとか、厳密に言えば自分がそれをそうした理由もあることはあるのだけれど、そんなセオリーにのっとったマジョリティ本位のデザインだとかレイアウトが素敵なはずがない。「置きにいった」仕事なんかだと、そういったみなさまにもわかりやすいことをするのだけれど、見えているものと理由がうまく合致しているようなものほどつまらないのにそんな説明をすると相手は納得する。納得しない場合は理由を知りたくて訊いたのではなくて、ダメ出しのポイントを探しているだけ。
写真の世界でもそう。なにかといえば理由を訊かれテーマを問われ意図を説明させようとするのが常だ。そういうのは売り手買い手のための営業ツールであって、写真そのものの表現性にとってはさほど意味がない。
写真やデザイン、美術や音楽なんかについては、そういう表現を感じることができなかったり受けとめたりすることができない人のため、感覚というものを感覚というもので理解できない人たちのために「理由」や説明が必要なのだと思っている。

とは言いながら、人の行動や言動については自分はなにかと「理由」を訊きたがる知りたがる。
人の行動や感情には必ず原因と理由があると思っていて、「なんとなく」好きだったり「気分で」どこかに出かけたりにも、必ずなにかしらの理由があると思っている。「匂いや味が生理的にダメ」とか「ぷよぷよした二の腕が好き」だとか、原初的な好悪や根源的で感覚的な得手不得手はあるのかもしれないけれど、それについてもよくよく探ってみれば、幼少期の経験に基づくものであったり遺伝的に備わったりするのだろうと思っている。特に、多くの人が同じようにすることとか誰もが同じように感じるようなことではなくて、個人的なことについて。
なので、自分の行動や感情の「理由」を言いたがらない人はその背後には「言えない理由」があるのだとずっと思ってきたし、自分の言動についてまず理由を説明しない人にはなにかしらの「言うとマズい理由」だとか「知られたくない理由」があるからなのだろうと思ってきた。けれどそうではない人もいて、いちいち理由を説明するのが面倒だったり、逐一理由を問われることが苦痛だったりすることもわかった。そういう人にもちゃんと理由があって自分自身でも理由があることを知っていて、言わないのは言えなかったり知られたくないからではなく言う必要がないと思っているだけのことだということも。
そう思いながらFacebookとかを見ていると、SNSみたいなところでも理由を「言う人」「言わない人」、「訊く人」「訊かない人」がいるのだなあとあらためて気づく。
「奈良に来てますー」とかいう記事を書く人と「鹿と大仏を見に奈良に来てます」と書く人。「なんで奈良?」「なんで鹿と大仏?仕事ですか」と訊く人と「いいねー奈良」「私も大仏好き」という人。どっちがいいとか悪いとかではなくて、きっと、理由に頓着するかしないかのことだけなんだろうと思うけれど。

どんな理由があるにしろ、その人のすることはその人の選択であって自身が自分でしたいと思ったりいいと思ってすることなんだと考えれば、理由にこだわる必要はない。
その人自身を信じれば、その人がなぜそんなことをするのかそんなことを言うのかと詮索したり考える必要なんか全然ないんだ。というようなことに50を過ぎてようやく気づいた、雨上がりの春の週末。
写真や美術には「理由」を説明する必要はない。とは、いまだに思っているけれど。

2015/04/02











今年。桜の季節が嫌いになった。

2015/03/21

新しい春。

自動車学校に通いだしてから1年以上かかって、ようやく昨日、運転免許を取得したそうだ。AT車限定。



幼稚園のころからずっと続けてはいたけれど、発表会に出るのは数年ぶり。
そしてこれで最後、という午後からの本番に向けて朝から家で軽くおさらい練習。
ドビュッシーの美しい曲。





2015/03/19

水を撮る。



少し写真を見せてもらって一度みじかい時間お話をしただけ。だけれどなにかしら気にかかって、
うまくいけばいいのになあと陰ながら思っていた写真を撮る人が、活動休止とも読めるエントリーをFBにアップしていた。
おそらく自身の中ではさまざまな思いやいろいろな考えの後にそういうことにしたのだろうし
残念には思うけれども、ちょっと休んでまた自身のなかでなにかが疼き始めたら活動を再開すればいいよ、と思う。

昔から知っている、性格はあまりいただけないのだけれども(個人的感想)、撮る写真はどれもこれも素晴らしくて
知り合いの中では最も「撮れる人」だと思っているフォトグラファーの経歴に、
「人間不信でしばらく写真から離れる」という数年間があったことを知っている。
人間不信と写真を撮ることにそれほど密接な関係があるのだろうかとずっと思ってきたのだけれど、
どちらに対しても本気であればあるほど、どちらへの影響も大きいのだ。と、今ならわかる。
人に対しても、なにかしら自分を表現する行為や術やに対しても、
次から次へと興味が移ったり、新しいものに乗り換えることができる人が羨ましい。

人を信じられなくなったり傷みをおぼえたときや心が疲れたときには、そうとは意識することなく、なぜかしら
自分は水を撮っている。ということに気がついた。



2015/03/14

行き別れ。



けっして交わることはなく。
近づくときは衝突。しかない。